8月8日(金) カクジュウ佐藤家の公開初日、うちの両親と(故)佐藤敏先生の奥様と一緒に見学に行ってきました。
はりきって、朝1番の公開開始時間、10時に到着です。
道中、奥様にいろいろとお話を聞きました。
(こんなに凄いと思ってなかったので、今更ですが、敏先生にもっと当時の話を聞いておくんだったなと思いました)
今回公開された、「カクジュウ佐藤家(歌棄“うたすつ”)」は、敏先生の生家ではなく、やはり本家ということでした。
先生の生家は、分家の「カクジュウ佐藤家(磯谷“いそや”)」だそうです。
今は、その建物は取り壊され、石碑が建てられています。
石碑に刻まれている当時の家屋の様子をみると、多分本家と同等か、それ以上の素晴らしい建造物であったことが伺えます。
敏先生はこの家から、矢印の道を通って、高台にある小学校へ通っていたそうです。
学校へ行くときには、常にお付きの人が一緒だったようです。

カクジュウ 佐藤家 (本家) 見学

中へ入ってすぐに目を引くのが、親方がいた常居という部屋の“高さ9メートルの吹き抜けと天窓、大きな神棚”です。
写真では伝わりずらいかもしれませんが、この神棚はとても大きく圧倒されます。
そしてその部屋の吹き抜けも相当な高さがあり、壮大さを感じます。
内部は総桧材・漆塗りで、非常に贅沢な造りになっています。






佐藤家の家紋「源氏車」が至る所に使われています。
佐藤家では、これは男性の紋だそうで、女性はまた違う紋を使っているとのことでした。
佐藤家、女性の紋はこちら。⤵️



改めて「寿都の海が育んだ二つの浜」を整理
―カクジュウ佐藤家が刻んだ「歌棄」と「磯谷」の物語―
日本海に面した北海道寿都町。
その荒波と豊かな漁場は、かつて「にしん景気」と呼ばれる繁栄をもたらしました。
その舞台となったのが「歌棄(うたすつ)」と「磯谷(いそや)」という二つの浜。
そして、この両地を結び、地域の歴史に深く名を刻んだのが、屋号「カクジュウ」で知られる佐藤家です。
海とともに歩んだ名家「カクジュウ」
佐藤家は江戸末期の嘉永年間から、歌棄と磯谷で場所請負人を務めた名家です。
にしん漁の最盛期には大規模な漁場経営を展開し、海上交通や地域の行政にも影響を与える存在でした。
屋号「カクジュウ」は、今も地元で親しまれています。
歌棄(うたすつ)—袋澗と和洋折衷の母屋
寿都湾に面する歌棄は、佐藤家が明治期に拠点とした漁場です。
前浜には袋澗(ふくろま)と呼ばれる船溜まりを築き、背後の段丘は魚の干場として活用されました。
母屋は二階建てで、上下窓や六角形の明かり取りなど和洋折衷のデザインが特徴。
漁夫宿を併設しない珍しい構造で、当時の漁場経営の個性を映しています。
現在は「漁場建築佐藤家」として北海道有形文化財に指定され、敷地全体が国史跡「旧歌棄佐藤家漁場」として保存されています。
磯谷(いそや)—千石場所と漁法革新
古くから「千石場所」と呼ばれた有力漁場・磯谷にも佐藤家の手が入りました。
初代・栄右衛門はこの地で、効率的な建網漁法を導入し、にしん漁の生産性を大きく向上させました。
磯谷の浜辺には別荘や関連施設も建てられ、往時の繁栄を物語る痕跡が今も残ります。
ここ磯谷のニシン御殿が、佐藤敏先生の生家です。
奥様も新婚当初はここで暮らしたそうです。

二つの浜を結ぶ一体経営
佐藤家は歌棄と磯谷を一体的に運営し、沿岸には袋澗、干場、邸内社などが連なる漁場景観を形成しました。
海から陸へと続くこの風景は、地域の暮らしと経済の中心でした。
衰退から保存へ—未来への橋渡し
大正末期からにしんは不漁となり、昭和5年に佐藤家漁場は閉鎖されます。
しかし、歌棄の母屋は保存活動により姿をとどめ、平成28年には敷地全体が国史跡に。
期間限定での一般公開も行われ、地域の記憶を未来へと伝えています。
海と人が織りなす記憶
「歌棄(うたすつ)」と「磯谷(いそや)」は、にしん漁が築いた繁栄と、屋号カクジュウの佐藤家が支えた歴史を今に伝えています。
袋澗や干場、母屋のたたずまいは、海と共に生きた人々の営みそのもの。
保存された景観は、これからも“海の記憶”として、次の世代へ語り継がれていくでしょう。








